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第1章 年の離れた従兄 第3話

作者: 花宮守
last update 最終更新日: 2025-02-09 17:40:41

 天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。

 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。

 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。

 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊まりしていた。昼間は私のそばを離れなかった。ノートパソコンを操作したり、誰かと電話で話したりしている時も、私が起きると中断して世話を焼いてくれた。「大事なお仕事の最中なのに」と遠慮すれば、決まって「君の方が優先事項だ」と返ってきた。

 最初は眠っている時間が多くて、疑問をぶつける余裕なんてなかった。その時期が過ぎると、だんだんと普通の食事をとれるようになり、リハビリも始まった。病室の外へ出るようになると、思考が働く時間も増えてきたけれど、自分の家族や境遇について、誰かに聞いてみることはしなかった。

 リハビリも特別室専用ルームを使っていたから、私の疑問に答えてくれるような人と会うチャンスは少なかった。それに加えて、だんだんとわかってきた自分の性質。物事をじっと観察する癖があり、基本的に、人と話さず結論を出す。お医者様も、「それは病状ではなく、持って生まれた性格というものでしょうね」と請け合った。隣で聞いていた晧司さんの、私の肩に置かれた手が震えた。目に涙をためて、何度も頷いていた。

 ――ああ、この人は私をとてもよく知っているんだわ。

 そう直感した。

 天霧晧司、三十八歳。手広く事業をやっている。穏やかな物腰の中に、私には見せない鋭いナイフを隠し持っている。それでなければ、漏れ聞こえてくる幅広い事業展開は不可能。詳細を調べようとは思わないけれど、彼の背景を想像するのは密かな楽しみ。左手の薬指に残る指輪の跡は、理由を考えようとすると脳が拒絶反応を起こすけれど……。

 寝ても覚めても、彼が私の、一番の観察対象。だから、「病院を出て、空気のいいところでゆっくり暮らしてみないか。私の別荘なんだ」と提案された時、迷わず頷いた。

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    最終更新日 : 2025-02-09
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